三文文士会は対面活動を再開しました。


560日。

最後に対面での批評会を──2019/12/20──行ってから、それだけの日数が経った。

 

 

 昨日は喜ばしい日であった。霖雨が、止みもせず、かといって酷くもならず、時折雨音が強くなっては弱くなるということを繰り返し、第三校舎24番教室の窓の外に広がっている。しかし、そのような陰鬱な天気でありながらも、それでも昨日は喜ばしい日であったと言うしかない。

 何故か?    単純明快、対面批評会のある日だったからである。

 

 対面授業は久々であって、考えてみると実に1年と6ヶ月振りだ。1年生はおろか、2年生ですら、対面の批評会は初めてであるのだ。彼らは対面批評会をこの瞬間まで知らなかったのだ。先輩から伝承のように語られるだけで。

 

「初めまして。何某です」

「嗚呼、何某さん。ずっとオンラインでしか話しませんでしたから、実在を確認できて光栄です」

──オフ会の場ではない。私が聞いた、批評会会場の会話である。なんておかしな挨拶が繰り広げられているのだろう? しかもこの何某さんは三文に入ったばかりの一年目ではない。2020年の春に入学した人と、一年の時を超えて初めて会っているのだ。

 

 discord批評会と違い、対面批評会はその開始前に駄弁りの時間がある。たいてい1時間かもっと前からぽつぽつと人が集まって、何でもない話をする。そこには、久しぶりですね、初めまして、そういう会話もあるものの、授業がどうだとか、土日がこうだとか、晩飯どうしようとか、そういう他愛もない話が多く広がる。ほとんどはサークル活動に一切関係のない会話。それでたっぷり60分を潰すのだ。この時間を18か月ぶりに過ごして、様々な感情が去来してきた。

 

 肝心の批評会もずっとそんな調子だった。節々で懐かしさすら感じる、対面の空気がそこにあった。

 もう「意見のある方は挙手を」と言われてdiscordに「ノ」と打ち込まなくてもよい。この手を挙げてよいのだ。

 もう音質の悪さに難儀しなくてもよい。「これ聴こえてますか?」などと、いちいち確認しなくてよいのだ。

 相手が言い切るのを待つでなく、厳密な挙手制でもない、自由な討論が私を待っていた。待っていてくれた。

 

 そして思う。やはり対面の批評会は良い。あまりの恋しさに美化されているのではなかった、と。

 

 勿論、この一年で我々はdiscordという新たな可能性を発見した。家に居ながらに批評できる手軽さと、遅くまでやってよいという精神的余裕は、対面では得難いものだ。それに、完全に対面になったわけでもない。discordと並行でも行っているし、後輩達に宮古焼きを奢るのも当分は先だろう。

 

 だがそれでも今日、翼を捥がれた三文文士が全てを取り戻さんとする物語の、最初の一ページは確かに刻まれた。ふざけたウイルス如きに生活を順応させるなど、断固として認めてはならない。対面批評会も、コンパも、合宿も、2019年に完全に回帰するとまでは言わずとも、あの日々を再び謳歌することを諦めてはならない。

 ふたたび、対面活動で大学サークル生活を楽しむ───それが贅沢な願いと謗られる前に。それが老害だと嗤われる前に。

 

 

そして、後輩諸君。

ようこそ、三文文士会へ。